平成21(ワ)17789等 日本アイ・ビー・エム退職勧奨事件 平成23年12月28日 東京地方裁判所
日本アイ・ビー・エム退職勧奨事件・解説
概要
裁判所: 東京地方裁判所(平成21年(ワ)第17789号・第41390号)
判決日: 平成23年12月28日
日本アイ・ビー・エム株式会社(被告)が実施した「2008 4Q リソース・アクション・プログラム」(以下「RAプログラム」)に基づく退職勧奨行為について、在職中の原告4名が違法な退職強要として損害賠償を求めた事案。裁判所は、==退職勧奨は使用者の自由であるが、その態様が労働者の自由な意思決定を妨げる場合には不法行為を構成し、違法な退職強要として損害賠償義務が生じる==と判断した。
判決: 原告らの請求をいずれも棄却
法的根拠: 民法709条(不法行為)
事件番号: 平成21年(ワ)第17789号・第41390号
出典: 裁判所ウェブサイト判例情報等
1. 当事者
原告(4名)
| 原告 | 入社年 | 配属部署 | PBC評価(直近) |
|---|---|---|---|
| P1 | 昭和56年9月 | パワーシステム事業部・製品企画 | 平成17年:3、18・19年:2 |
| P2 | 昭和58年4月 | アウトソーシング事業 | 平成17〜19年:2 |
| P3 | 平成2年4月 | IMSシステムズ・サービス第五オープン・サーバー技術 | 平成17・18年:3、19年:4 |
| P4 | 昭和62年4月 | セキュリティ事業 | 平成17年:2、18年:3、19年:2 |
いずれも全日本金属情報機器労働組合IBM支部(支部組合)の組合員
被告
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 社名 | 日本アイ・ビー・エム株式会社 |
| 性格 | 情報システムに係わる製品・サービスの提供等を業とする会社。米国IBMの100%孫会社 |
| 従業員数 | 平成4年時点で約2万5千人、平成20年12月末現在で1万6111名(「セカンドキャリア支援プログラム」等により減少) |
2. 事実関係
RAプログラムの概要
| 時期 | 事実 |
|---|---|
| 平成20年10月10日 | 「2008 4Q リソース・アクション・プログラム」(RAプログラム)策定 |
| 平成20年10月14・15日 | 人事担当取締役執行役員P6が各部門長を招集し説明会。「予定数の達成がリーダー各人の結果責任となる」と通知 |
| 平成20年10月26日まで | ラインマネージャーに対する面接研修(講義・ロールプレイング) |
| 平成20年10月16日以降 | 対象社員への一斉退職勧奨開始 |
| 平成20年11月7日 | 被告代表者名で「High Performance Cultureの一層の推進について」と題する文書を全社員に発表 |
| 平成20年11月中旬 | PBC低評価見込み者に対し「PBC低評価予告メール」を送信 |
| 平成20年12月19日 | 退職手続の期限(RAプログラム所定) |
RAプログラムの対象基準(正社員の場合)
- ボトム15%として特定された社員のうち、IBM グループ外にキャリアを探してほしい社員
- 継続的にPBC評価が3以下の社員
- 50歳以上かつ今後高い貢献を期待できない社員(原則昨年PBC評価2+以上は除く)等
RAプログラムの留意事項(文書記載)
- 「退職を強要するような言動は違法となりますので、言葉遣いや態度には十分気をつけてください」
- 「1回の面談は30〜40分程度を目安にしてください」
- 「1週間に3回以上の面談はしないようにしてください」
3. 各原告に対する退職勧奨の態様
原告P1に対する行為(主要部分)
| 行為 | 内容 |
|---|---|
| 平成20年10月28日 | P7からRAプログラムへの応募検討を求められる |
| 同年11月6日 | 退職意思のないことを伝えているのに特別支援プログラムの書面を一方的に交付 |
| 同年11月13日 | P8・P9による2対1の面談。P9が「60歳まで働かなければならない理由がわからない」等と述べ約20分面談 |
| 同年12月3日 | 法務担当執行役員P10との面談を要求するメール送信 |
| 同年12月4日 | 面談を断ると「解雇を含む処分があり得る」旨メールで告知 |
原告P2に対する行為
| 行為 | 内容 |
|---|---|
| 平成20年10月22日 | P11が「この会社では60歳まで働くことはあり得ない」と述べ退職検討を申し渡す |
| 同年10月24日 | 就業時間後午後7時に呼び出し、「積極性がない」「受け身だ」「そこがダメだ」と人格を傷つける発言。転職支援会社のパンフレットを渡す |
| 同年11月10日 | P12が「業務の話」と偽り面談。「あなたの給料は高すぎる」「ハイパフォーマンス・カルチャーにあなたは合っていない」などの発言 |
| 同年11月13日 | 「PBC低評価予告メール」送信 |
原告P3に対する行為
| 行為 | 内容 |
|---|---|
| 平成20年10月24日 | P13が退職を示唆 |
| 同年11月4日 | 退職拒否後にP13が再呼び出し。午後2時5分〜3時30分(約1時間25分)にわたり「会社に貢献するスキルがなく、不要な人材」と繰り返し述べる。また右足を床に7・8回激しく打ち付け、ペットボトルを顔から30センチの至近距離で振り回し、「あーふざけんなよ、貴様」と怒鳴り、机を蹴り上げる行為 |
| 同年12月26日 | PBC最低評価「4」を伝達 |
原告P4に対する行為
| 行為 | 内容 |
|---|---|
| 平成20年10月7・21・28日 | P15が特別支援プログラムを提示・説明 |
| 同年11月11日 | 退職意思なしを伝えると「今まで応じる素振りを見せておいて今さら何だ」「会社はあなたを必要としていない」と1時間にわたり退職強要 |
| 同年12月1日 | 「あなたに与える仕事はない」「あなたの居場所はない、自分で異動先を探せ」「我々は会社の指示どおりにやっている、会社にも弁護士がいるんだぞ」と1時間の面談 |
| 同年12月25日 | 「PBC4が妥当」「休職したAさんより貢献度は低い」と発言 |
| 平成21年2月23日 | 業務改善プログラムを開始。拒絶すると「人事にそれなりの報告をする」と脅迫 |
4. 争点と判断の流れ
争点 退職勧奨行為の違法性の有無
裁判所が示した一般的判断基準:
==退職勧奨は、使用者が労働者に対し、自発的な退職意思の形成を働きかけるためのものであって、これが労働者の自由な意思決定を妨げるものでない限り、使用者の自由な行為として許容される。しかしながら、退職勧奨が、退職の意思のない労働者に対して、殊更に不安を煽り、又は困惑させるなどの心理的圧力を加えて、その自由な意思の形成を妨げるような場合には、その行為は不法行為を構成する。==
各原告に対する判断:
| 原告 | 裁判所の判断 | 理由 |
|---|---|---|
| P1 | 不法行為不成立 | 面談回数・態様は相当性を逸脱していない。「解雇を含む処分があり得る」との発言も事実の告知にとどまる範囲 |
| P2 | 不法行為不成立 | 人格を傷つける発言があったとしても、全体として違法なほどの心理的圧力があったとは認められない |
| P3 | 不法行為不成立 | 足の打ち付け・ペットボトルの振り回し等の行為については証拠により認定できない部分がある |
| P4 | 不法行為不成立 | 面談の態様が相当性を逸脱するほどの心理的圧力があったとは認められない |
5. 結論(主文)
- 原告らの請求をいずれも棄却
- 訴訟費用は原告らの負担
- 裁判所は退職勧奨自体の違法性を否定したが、==判決において「退職の意思のない労働者に対し、心理的圧力を加えて自由な意思形成を妨げる退職勧奨は不法行為を構成する==」という判断基準を明示した点に重要な法規範的意義がある
6. 判決のポイント
- 退職勧奨は原則適法 — 使用者が労働者に自発的な退職意思の形成を働きかけること自体は自由であり、適法な行為である。
- 違法となる限界基準の明示 — 退職勧奨が労働者の自由な意思の形成を妨げるような心理的圧力を伴う場合、不法行為が成立する。
- RAプログラムの構造的問題 — 予定数達成をラインマネージャーの「結果責任」とするプログラムは退職強要を誘発するリスクがあることを示唆しつつも、個々の行為について違法性を認定しなかった。
- 証拠の重要性 — P3に対する暴力的言動(足の打ち付け・ペットボトル振り回し)等の事実認定において証拠が決定的な意味を持つ。
- 「解雇があり得る」の告知 — 業績評価の結果として解雇等の処分が生じうることを告知することは、必ずしも違法な脅迫にはあたらない。
- PBC低評価予告の適法性 — 業績評価の見込みを事前に告知することは、退職勧奨と組み合わせられても直ちに違法とはならない。
- 「1週間3回以上の面談禁止」等の内部ルール — RAプログラム自身が退職強要防止の留意事項を定めており、これを遵守した場合には違法性を免れやすい。
7. 法的根拠
退職勧奨の法的根拠・規制
| 法理・条文 | 内容 | 本件での役割 |
|---|---|---|
| 民法709条 | 不法行為による損害賠償 | 違法な退職強要に対する損害賠償請求の根拠 |
| 退職勧奨の自由 | 使用者は労働者の自発的退職を働きかける自由を有する | 本件ではこれが原則として確認された |
| 権利濫用の法理 | 自由も濫用すれば違法 | 心理的圧力が一定程度を超えると不法行為に転化 |
違法な退職勧奨の判断要素
| 要素 | 違法性の判断に関係する内容 |
|---|---|
| 面談回数・期間 | 週3回以上・長時間・繰り返しは違法リスクが高い |
| 言動の内容 | 人格否定・虚偽事実の告知・脅迫的発言は違法 |
| 退職意思の明示後も継続 | 退職の意思がないことを明示した後も執拗に継続することは違法リスク |
| 上位者複数による面談 | 2対1等の圧迫的状況は考慮要素となる |
| 暴力的言動 | 身体への威嚇・机の蹴り等は不法行為を構成しうる |
後続法令との接続
| 条文 | 関連 |
|---|---|
| 労働契約法16条 | 解雇は客観的合理的理由・社会的相当性がなければ無効。退職勧奨による退職が真意でない場合、「解雇」として取り扱われる場合がある |
| 労働施策総合推進法30条の2 | パワーハラスメント防止措置義務(令和元年施行)。本判決で問題となった行為の多くはパワハラに当たりうる |
8. 関連キーワード
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10. わかりやすい法的根拠解説
本節は、判決の法的根拠を初学者向けに整理した解説です。§6と併読してください。
この事件の核心:「退職勧奨」はどこまで許されるか
flowchart TD
A["使用者が労働者に\n退職を勧める\n(退職勧奨)"] --> B{"態様の判定"}
B -->|"自由な意思形成を妨げない\n→ 適法"| C["退職勧奨として\n許容される"]
B -->|"心理的圧力で\n意思形成を妨げる\n→ 違法"| D["不法行為(民法709条)\n→ 損害賠償義務"]
D --> E["慰謝料等の\n賠償責任"]
① 退職勧奨が適法な範囲
退職勧奨は「辞めてほしい」という意思を伝えること自体は許されます。
| 適法な退職勧奨の例 | 説明 |
|---|---|
| 業績上の問題を説明し退職を提案する | 事実に基づく説明 |
| 割増退職金・再就職支援等の条件提示 | メリットの提示 |
| 面談を数回行う | 一定回数・時間内 |
| 退職しなければPBC評価が下がると告知 | 評価の見込みを事実として告知 |
② 違法となる退職強要の目安
本判決が示した基準と本件での判断を踏まえると、以下が違法リスクとして重要です。
| 行為 | 本件の状況 | 違法性判断 |
|---|---|---|
| 解雇の脅し | P1への「解雇を含む処分があり得る」発言 | 不成立(事実の告知の範囲内) |
| 退職意思明示後の執拗な継続 | 全原告に複数回の面談 | 全員不成立(回数・態様が限度内) |
| 人格を傷つける発言 | P2への「そこがダメだ」等 | 不成立 |
| 暴力的言動 | P3への足打ち・ペットボトル振り回し | 証拠上不成立 |
| 「仕事がない」「居場所がない」等 | P4への発言 | 不成立 |
※本件では全員不成立だったが、判決は違法となる基準を明示しており、より激しい態様では不法行為となりうると認識する必要があります。
③ RAプログラムの構造的問題点
本件のRAプログラムは「予定数の達成がリーダー各人の結果責任」と定めており、現場の管理職を退職強要に駆り立てる構造を持っていました。
RAプログラムが内包していた矛盾:
- 「退職強要は違法」と留意事項に明記しつつ
- 「予定数の達成が結果責任」とプレッシャーをかける
この構造は、組織的な違法行為を誘発するリスクがあることを本判決は示唆しました(ただし、個々の行為では違法性を認定せず)。
④ パワーハラスメントとの接続
本判決(平成23年)はパワハラ防止法(令和元年施行)の前の判決ですが、現在では次のように位置付けられます。
| 本件で問題となった行為 | 現行パワハラ類型との対応 |
|---|---|
| 足の打ち付け・ペットボトル振り回し | 身体的な攻撃(第1類型) |
| 「ふざけんなよ、貴様」「机を蹴り上げ」 | 精神的な攻撃(第2類型) |
| 2対1面談・執拗な繰り返し | 過大な要求・執拗な言動(第3・4類型) |
| 「仕事がない」「居場所がない」 | 人間関係からの切り離し(第4類型) |
⑤ 争点と法理の対応表(逆引き)
| 争った点 | 参照すべき法理 |
|---|---|
| 退職勧奨は適法か | 退職勧奨の自由(使用者の権限) |
| どこから違法になるか | 本判決(日本IBM事件)— 心理的圧力で自由な意思形成を妨げるとき |
| 損害賠償の根拠 | 民法709条(不法行為) |
| 暴力的言動への対処 | 民法709条+パワハラ防止法(令和元年以降) |
| 解雇と退職勧奨の関係 | 退職強要が認められる場合→意思表示の無効→解雇法理(労働契約法16条)が適用 |
本節は判決解説の法的根拠を初学者向けに整理したものです。個別事件の法律相談・訴訟代理ではありません。