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平成8(オ)128 ケンウッド事件(育児と配転命令の権利濫用判断)平成12年1月28日 最高裁判所第三小法廷

ケンウッド事件・最高裁判決解説

概要

裁判所: 最高裁判所第三小法廷(裁判長:金谷利廣、裁判官:千種秀夫・元原利文・奥田昌道)

判決日: 平成12年1月28日

株式会社ケンウッドが、東京都目黒区の企画室に勤務する女性従業員(上告人)に対して、東京都八王子市の八王子事業所への転勤(本件異動命令)を命じた事案。上告人は幼児(長男)の保育のため応じることができないとして命令を拒否し続け、最終的に懲戒解雇された。本件異動命令が権利濫用に当たるかどうかが争われた。最高裁は、==業務上の必要性があり不当な動機・目的もなく、上告人の不利益が社会通念上甘受すべき程度を著しく超えるとはいえないとして、本件異動命令は権利濫用にならない==とした。

法的根拠: 就業規則(配転命令権)、民法1条3項(権利濫用禁止)

出典: hanrei-pdf-18846.pdf


1. 当事者

原告(上告人)

項目 内容
地位 株式会社ケンウッドの従業員(女性)。昭和50年7月21日入社
経歴 約7年間の通信機器製造業務後、昭和60年1月16日以降は東京都目黒区企画室の庶務業務に従事
家族状況 夫と長男(昭和59年6月生・本件命令発令当時約3歳)の3人家族。品川区在住
請求 本件異動命令の権利濫用による無効確認。懲戒処分(停職・懲戒解雇)の無効確認

被告(被上告人)

項目 内容
地位 株式会社ケンウッド(音響機器・通信機器等の製造販売。資本金約106億9,400万円、従業員約2,000人)
本件命令 上告人を企画室から八王子事業所のHICプロジェクトチーム製造ライン勤務へ異動
就業規則 「会社は、業務上必要あるとき従業員に異動を命ずる。なお、異動には転勤を伴う場合がある。」との定め

2. 事実関係

時期 事実
昭和62年3月 八王子事業所において5人態勢でHIC(ハイブリッドIC)の生産開始
昭和62年中 需要増により10人態勢に増員必要。同事業所内で6人増員したが残り1名の補充が困難になる
昭和62年末 退職予定者2名が生じ、補充のため本社地区からの異動が必要となる
人選基準 即戦力となる製造現場経験者で年齢40歳未満の者。対象約60人の女性従業員から選定
昭和62年12月24日 上告人を異動対象者として選定(製造現場7年経験・34歳)
昭和63年1月27日 上告人に対して「2月1日付けでHICプロジェクトチームのHIC製造ライン勤務へ異動」の内示
昭和63年1月27日 本件異動命令(以下「本件異動命令」)を発令
同日 上告人が苦情処理委員会に苦情申立て。2月3日に棄却
異動後 上告人は八王子事業所に出勤せず。話合いにも積極的に応じず欠勤継続
昭和63年5月6日ころ到達 停職1か月(5月9日〜6月8日)の懲戒処分
昭和63年9月21日ころ到達 停職期間満了後も出勤しないため懲戒解雇

通勤・保育に関する事実関係

項目 内容
従前の通勤時間 品川区住居から企画室(目黒区)まで少なくとも約50分
八王子事業所への通勤時間 最短経路で行き約1時間43分、帰り約1時間45分
長男の保育の状況 水曜日は上告人が送り、パートの保母に月1万円で迎え・夕食・午後8時まで自宅保育を依頼。他の曜日は夫が送り、かつての同僚に月1万円で迎え・午後6時50分までの自宅保育を依頼
八王子事業所への転勤に伴う保育への支障 水曜日の保育園への送りと、他の曜日の午後6時50分〜7時35分ころまでの保育に支障
夫の状況 港区の外資系企業に勤務。通勤時間約40分。残業・出張が多い(前1年間に延べ19回・87日間)
八王子周辺の保育環境 徒歩15分圏内に3か所、送迎バス利用20分圏内にもう1か所保育園あり。うち2か所は定員に余裕
転居可能性 八王子・豊田・日野・立川駅近辺に入居可能な住居多数。夫の通勤時間延長は約1時間(乗車駅から)。上告人の元住居は借家
不当動機の有無 企画室長が退職させるための嫌がらせ・報復人事として命令したとは認められない

3. 争点と判断の流れ

争点① 本件異動命令が権利濫用に当たるか

審級 判断
原審 業務上の必要性あり。不当な動機・目的なし。上告人の不利益は通常甘受すべき程度を著しく超えない → 本件異動命令は権利濫用でない
最高裁 原審の判断は正当として是認できる。懲戒処分にも所論の違法はない

適用された判断基準

基準 根拠
転勤命令の権利濫用判断の枠組み 東亜ペイント事件(最判昭和61年7月14日・裁判集民事148号281頁)
業務上の必要性なし、または不当な動機・目的あり、または著しい不利益のいずれかで濫用 上記先例の3要素基準

本件への適用

判断要素 事実 評価
業務上の必要性 HICプロジェクトチームの退職予定者補充に早急な必要。製造現場経験者・40歳未満という合理的基準で選定 業務上の必要性あり
不当な動機・目的 企画室長が退職させるための嫌がらせ等として命令したとは認められない 不当な動機・目的なし
上告人の不利益 必ずしも小さくはないが、通常甘受すべき程度を著しく超えるとまではいえない 著しい不利益とはいえない

4. 結論(主文)


5. 判決のポイント

  1. 東亜ペイント事件の基準を育児事案に適用 — 幼児の保育を担う女性従業員への配転命令も、業務上の必要性・不当動機の不存在・著しい不利益の有無という3要素で判断される。
  2. 「著しい不利益」は通常甘受すべき程度との比較 — 長距離通勤・保育への支障は不利益であるが、転居という選択肢が現実的に存在し、それにより不利益を軽減できる場合、「著しく超える」とまでは評価されにくい。
  3. 転居・長距離通勤のいずれの道も選択肢 — 使用者は「転居しないで転勤するよう命じた」わけではなく、転居するか長距離通勤するかは労働者の選択。転居すれば保育環境も確保できる事情が重視された。
  4. 話合い拒否は不利に働く — 上告人は会社が勤務時間・保育問題等について話し合う意向を示したにもかかわらず積極的に応じなかった。この態度は懲戒処分の相当性判断に影響する。
  5. 第二子妊娠は命令後の事情 — 本件異動命令の後に妊娠した事実は、命令の効力を左右しない。
  6. 補足意見の重要性(元原裁判官) — 高学歴でない未就学児童を持つ女性労働者への配転については、より慎重な配慮が必要との補足意見。本判決をもって広域の異動が常に許されると誤解してはならない旨を明示。

6. 法的根拠

関係規定

規定 内容 本件での役割
就業規則 「業務上必要あるとき従業員に異動を命ずる。なお、異動には転勤を伴う場合がある。」 配転命令権の契約上の根拠
民法1条3項 権利の濫用は許されない 配転命令権の濫用審査の根拠
就業規則(懲戒規定) 業務命令違反・欠勤を懲戒事由として規定 停職・懲戒解雇の根拠

引用先例

先例 裁判所・日付 本件での引用(要旨)
東亜ペイント事件 最判昭和61年7月14日(裁判集民事148号281頁) 転勤命令の権利濫用判断の3要素基準

現行法との接続

条文 内容 本件との関係
育児・介護休業法26条 転勤の際は育児・介護の状況に配慮すること(努力義務) 本件命令当時は施行前だが、現行法での配慮義務の明文化
育児・介護休業法3条(現行) 育児・介護と仕事の両立に関する基本理念 類似状況での現行法的検討の基礎

7. 実務上の示唆

使用者側

労働者側


8. 関連キーワード

ケンウッド事件、配転命令、転勤、権利濫用、育児、保育、幼児、著しい不利益、社会通念、東亜ペイント事件、懲戒解雇、停職、転居、元原利文補足意見、女性労働者


9. 関連ナレッジ

ナレッジ 関係
帝国臓器製薬事件(18857) 単身赴任を伴う転勤命令と不利益の受忍限度。同一の配転権濫用基準
新日本製鐵(日鐵運輸)事件(18591) 在籍出向命令と権利濫用の比較

本ナレッジは判決解説の整理であり、個別の法的助言ではありません。


10. わかりやすい法的根拠解説

本節は、判決の法的根拠を初学者向けに整理した解説です。§6の条文一覧と併読してください。

この事件で何を争っていたか(大枠)

音響・通信機器メーカーに勤務する女性従業員(3歳の長男を持つ)が、東京都目黒区の企画室から八王子市の工場(製造ライン)への転勤を命じられました。子どもの保育への深刻な支障を理由に命令を拒否し続けたところ、停職・懲戒解雇となりました。配転命令の権利濫用性と懲戒処分の有効性が争われました。


① 配転命令権の濫用判断 — 3要素チェック

flowchart TD
  A["配転命令の発令"] --> B{"要素1\n業務上の必要性あるか"}
  B -->|"なし"| INVALID["権利濫用\n命令無効"]
  B -->|"あり"| C{"要素2\n不当な動機・目的あるか"}
  C -->|"あり\n嫌がらせ・報復等"| INVALID
  C -->|"なし"| D{"要素3\n労働者に著しい不利益あるか\n(通常甘受すべき程度を\n著しく超えるか)"}
  D -->|"著しく超える"| INVALID
  D -->|"超えない\n(本件)"| VALID["権利濫用でない\n命令有効"]

本件では、3つの要素すべてが「問題なし」と判断されたため、配転命令は有効とされました。


② 「著しい不利益」をどう判断するか — 本件の分析

不利益の主張 会社側の反論 裁判所の評価
長距離通勤(片道約1時間43分) 1時間30分〜2時間20分以上かかる男性従業員が数十人いる 異例な通勤時間ではない
保育園の送迎に支障 八王子近辺に定員余裕のある保育園が複数ある 転居すれば解決可能
夫の通勤負担が増える 転居先からJR中央線で約1時間。比較的短い延長 許容範囲内
転居費用・手間 借家であり転居のハードルは相対的に低い 著しい障害とはいえない

→ 「転居する」という選択肢を取れば、不利益は通常甘受すべき程度を著しく超えないと判断されました。


③ 「転居するかしないか」は労働者の選択

flowchart LR
  A["八王子への\n転勤命令"] --> B["長距離通勤を選択\n(転居しない)"]
  A --> C["家族全体で転居\n(八王子周辺へ)"]
  A --> D["上告人と長男のみ\n転居・別居"]
  B --> E["保育に支障が\nやや生ずる可能性\nだが解決困難でない"]
  C --> F["夫の通勤延長あるが\n保育環境確保可能"]
  D --> G["夫との別居は\n不利益だが\n一つの選択肢"]

裁判所は、転居・長距離通勤のいずれを選ぶかは「上告人ないしその家族の判断」であり、使用者が転居しないよう命じたわけではないとしました。いずれかの選択で「著しい不利益」を回避できるなら、命令は有効です。


④ 元原裁判官の補足意見が示す「配慮の要請」

本判決には、裁判官元原利文による重要な補足意見が付されています。

近時、男女の雇用機会の均等が図られつつあるとはいえ、とりわけ未就学児童を持つ高学歴とまではいえない女性労働者の現実に置かれている立場にはなお十分な配慮を要するのであって、本判決をもってそのような労働者であっても雇用契約締結当時予期しなかった広域の異動が許されるものと誤解されることがあってはならない。

この補足意見は、法廷意見(多数意見)とは別に、判決の射程を限定する重要なメッセージを含んでいます。

補足意見が示すポイント 実務的意味
本件は「同一東京都内の異動」として理解すべき より広域の異動(例:東京→地方)は別の判断が必要
未就学児童を持つ女性労働者の立場への配慮が必要 転勤命令の濫用判断はより慎重に
黙示的合意の可能性(広域異動しない合意) 雇用契約時の状況・職種・学歴から判断

⑤ 話合い拒否が懲戒処分の相当性に影響した点

本件では、会社が「勤務時間・保育問題等について話し合ってできる限りの配慮をしたい」と申し出たにもかかわらず、上告人は積極的に応じませんでした。この事実は、懲戒処分(停職・懲戒解雇)の相当性判断において不利に働きました。

教訓: 配転命令に異議を持つ場合でも、使用者との誠実な協議は重要です。拒否・無視は懲戒処分の正当化につながります。


⑥ 争点と条文の対応表(逆引き)

争ったこと 見るべき法理・条文
配転命令権の根拠 就業規則・労働契約(個別同意不要)
配転命令の権利濫用チェック 東亜ペイント事件(3要素)→ ケンウッド事件(本判決)
育児と配転命令の配慮 育児・介護休業法26条(現行・配慮義務)
懲戒解雇の有効性 懲戒権濫用禁止(労働契約法15条)
女性労働者への広域異動の問題 元原補足意見の射程限定

本節は判決解説の法的根拠を初学者向けに整理したものです。個別事件の法律相談・訴訟代理ではありません。